ジェノヴァでは、ホテルで食べた本物のジェノヴェーゼソースで作った伝統料理が最高だった。
日本に帰ってから、同じ形のパスタを探したが、未だに見つけられずにいる。
ジェノヴァ駅から列車に乗り、待望の南仏に向かった。
地中海の海岸線沿いに列車は進み、これまで見たことのない風景ももちろんあったが、なんとなく伊豆に似た雰囲気もあった。
何しろ、熱海は東洋のモナコなのだから。
Mr. Cloud
2011年6月30日木曜日
2011年6月29日水曜日
南仏の5月 パート9
ルネサンスの都フィレンツェを後にし、中世の地中海貿易で栄えたジェノヴァに着いた。
途中、ピサに立ち寄りたい気持ちもあったが、先が長いこともあり、ヴェネツィアのアドリア海から地中海に到達した。
ジェノヴァはあのコロンブスの生まれ故郷で、ここからスペインのイザベラ女王の支援でアメリカ大陸を発見?することになる。
ジェノヴァ駅前には、立派なコロンブス像が堂々としていた。
Mr. Cloud
途中、ピサに立ち寄りたい気持ちもあったが、先が長いこともあり、ヴェネツィアのアドリア海から地中海に到達した。
ジェノヴァはあのコロンブスの生まれ故郷で、ここからスペインのイザベラ女王の支援でアメリカ大陸を発見?することになる。
ジェノヴァ駅前には、立派なコロンブス像が堂々としていた。
Mr. Cloud
2011年6月24日金曜日
南仏の5月 パート8
フィレンツェでは、ウフィツィ美術館でダ・ヴィンチの『受胎告知』、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』、アカデミア美術館で『ダビデ像』と素晴らしい芸術品を堪能した。
イタリアは、西ローマ帝国の崩壊以後、小国の乱立が続き、1861年に成立したイタリア王国が71年に全土を統一するまで、中世の時代には、ジェノヴァ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどが地中海交易や商工業を背景に勃興したのである。
Mr. Cloud
イタリアは、西ローマ帝国の崩壊以後、小国の乱立が続き、1861年に成立したイタリア王国が71年に全土を統一するまで、中世の時代には、ジェノヴァ、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどが地中海交易や商工業を背景に勃興したのである。
Mr. Cloud
2011年6月23日木曜日
ボローニャから移動し、とうとうルネサンスの都であるフィレンツェに到着した。
宿泊は、『Grand Hotel Villa Medici』で、5月音楽祭でも有名なコムナーレ劇場にもほど近く、私が宿泊した時もヨーロッパの有名なオーケストラが昼間ホテル内で練習しており、素晴らしい響きをまじかに聴くことができた。
フィレンツェは、歴史上、最も有名なパトロンであるメディチ家が創造した都市であるが、メディチ家は私にとっても最も尊敬するパトロン一族である。
何といってもあのダ・ヴィンチの庇護者であったのだから。
ミケランジェロを始め、メディチ家が存在しなければ、ルネサンスは興隆しなかったであろう。
ミケランジェロのダビデ像のアカデミア美術館、ダ・ヴィンチの受胎告知、ボッティチェリのヴィーナスの誕生のウフィツィ美術館と、人類の文化遺産の宝庫であるフィレンツェは、いくら時間があっても足りないほどであった。
フィレンツェの街を散策していた時、突然、自分の名前を呼ばれたので、驚いて振り向くと、そこに弟の彼女の友人が立っていたのである。
彼女は、銀座に本店を構える日本でも有数の靴店の跡取り娘で、丁度靴の勉強でイタリアに滞在しており、見本市が近いので、準備のためにフィレンツェの靴店を回っている最中であった。
フィレンツェもボローニャと並ぶ、皮革製品の街であり、あのサルバトーレ・フェラガモもポンテ・ベッキオ近くに本店を構えていた。
また、オートバイが多い街でもあり、空気はおせじにもきれいとはいえなかった。
フィレンツェはトスカーナ州の州都であるが、トスカーナ・ワインは世界に誇るワインとなっていて、ピッティ宮殿前の『ピッティ・ゴーラ・エ・カンティーナ』を訪れると、マニア垂涎のトスカーナ・ワインがリーズナブルな価格で所狭しと置かれていた。
オーナーと英語で会話し、ティニャネッロ数本と、あと数本他のワインを購入し、店を出た。
その後スペイン・トレドの画家の友人にティニャネッロをお土産として持って行ったが、今年もらった年賀状に、最近私のいとことあのワインを飲んだと書かれていた。
Mr. Cloud
宿泊は、『Grand Hotel Villa Medici』で、5月音楽祭でも有名なコムナーレ劇場にもほど近く、私が宿泊した時もヨーロッパの有名なオーケストラが昼間ホテル内で練習しており、素晴らしい響きをまじかに聴くことができた。
フィレンツェは、歴史上、最も有名なパトロンであるメディチ家が創造した都市であるが、メディチ家は私にとっても最も尊敬するパトロン一族である。
何といってもあのダ・ヴィンチの庇護者であったのだから。
ミケランジェロを始め、メディチ家が存在しなければ、ルネサンスは興隆しなかったであろう。
ミケランジェロのダビデ像のアカデミア美術館、ダ・ヴィンチの受胎告知、ボッティチェリのヴィーナスの誕生のウフィツィ美術館と、人類の文化遺産の宝庫であるフィレンツェは、いくら時間があっても足りないほどであった。
フィレンツェの街を散策していた時、突然、自分の名前を呼ばれたので、驚いて振り向くと、そこに弟の彼女の友人が立っていたのである。
彼女は、銀座に本店を構える日本でも有数の靴店の跡取り娘で、丁度靴の勉強でイタリアに滞在しており、見本市が近いので、準備のためにフィレンツェの靴店を回っている最中であった。
フィレンツェもボローニャと並ぶ、皮革製品の街であり、あのサルバトーレ・フェラガモもポンテ・ベッキオ近くに本店を構えていた。
また、オートバイが多い街でもあり、空気はおせじにもきれいとはいえなかった。
フィレンツェはトスカーナ州の州都であるが、トスカーナ・ワインは世界に誇るワインとなっていて、ピッティ宮殿前の『ピッティ・ゴーラ・エ・カンティーナ』を訪れると、マニア垂涎のトスカーナ・ワインがリーズナブルな価格で所狭しと置かれていた。
オーナーと英語で会話し、ティニャネッロ数本と、あと数本他のワインを購入し、店を出た。
その後スペイン・トレドの画家の友人にティニャネッロをお土産として持って行ったが、今年もらった年賀状に、最近私のいとことあのワインを飲んだと書かれていた。
Mr. Cloud
南仏の5月 パート6
ボローニャは、食の都であると共に皮革製品でも世界的に有名である。
『ア・テストーニ』、『ブルーノ・マリ』など、ボロネーゼ製法と呼ばれる独特の靴の製造法により、履きやすく、しかも美しい靴のフォルムを実現した靴作りを続けている。
ひとつ残念だったのは、食の都でも最も有名な『パッパガッロ』というレストランが予約でいっぱいだったことである。古城の中にあるようなレストランで、次回は是非訪れたい。
さて、本来の目的であるF1サンマリノグランプリの開催地であるイモラに、ボローニャから電車で1時間ほどで到着した。
イモラは、とてものどかな田舎町で、こんなところでF1レースをするのかとびっくりしたのを思い出す。
イモラのサーキットは、あのフェラーリの創設者である『エンツィオ・フェラーリサーキット』と呼ばれ、フェラーリのもうひとつの聖地でもあった。
1994年5月のイモラで、『音速の貴公子アイルトン・セナ』がコーナーに激突し亡くなっており、あのさわやかな笑顔をレース中、何度も思い出した。
のどかなサーキットに、イタリア中、ヨーロッパ中からたくさんの人々が集まり、ピクニック気分でレースを楽しんでいた。
スタンドは、フェラーリレッドで真っ赤に染まり、イタリアの誇りであるフェラーリの偉大さを思い知らされた。
Mr. Cloud
『ア・テストーニ』、『ブルーノ・マリ』など、ボロネーゼ製法と呼ばれる独特の靴の製造法により、履きやすく、しかも美しい靴のフォルムを実現した靴作りを続けている。
ひとつ残念だったのは、食の都でも最も有名な『パッパガッロ』というレストランが予約でいっぱいだったことである。古城の中にあるようなレストランで、次回は是非訪れたい。
さて、本来の目的であるF1サンマリノグランプリの開催地であるイモラに、ボローニャから電車で1時間ほどで到着した。
イモラは、とてものどかな田舎町で、こんなところでF1レースをするのかとびっくりしたのを思い出す。
イモラのサーキットは、あのフェラーリの創設者である『エンツィオ・フェラーリサーキット』と呼ばれ、フェラーリのもうひとつの聖地でもあった。
1994年5月のイモラで、『音速の貴公子アイルトン・セナ』がコーナーに激突し亡くなっており、あのさわやかな笑顔をレース中、何度も思い出した。
のどかなサーキットに、イタリア中、ヨーロッパ中からたくさんの人々が集まり、ピクニック気分でレースを楽しんでいた。
スタンドは、フェラーリレッドで真っ赤に染まり、イタリアの誇りであるフェラーリの偉大さを思い知らされた。
Mr. Cloud
2011年6月21日火曜日
南仏の5月 パート5
1996年1月29日に修復工事中のフェニーチェ劇場が放火で焼失し、私がヴェネツィアを訪れた際には、その痛々しい姿を晒していた。
現在は、元の姿を取り戻しているが、その時の廃墟はひどいものだった。
ヴェネツィアでは、サン・マルコ広場にある最古のカフェであるカフェ・フローリアンで午後の一時を過ごしたが、あのゲーテやカサノヴァもひいきにしていたことを思い出し、歴史を共有できたことが感慨深い。
ヴェネツィアの次に訪れたのが、ヨーロッパ最古、世界の大学の原点であるボローニャ大学のあるボローニャである。
あのダンテ、ガリレオ、コペルニクスが学んだのもボローニャ大学である。
ショーン・コネリーが主演した中世の修道僧探偵の話である、ボローニャ大学の教授であるウンベルト・エーコの大ベストセラー『薔薇の名前』は私の大好きな映画の一つであるが、ボローニャは中世の趣そのままに、アーケードが街をめぐり、またかつて塔が競って建てられたという名残もあった。
ボローニャに逗留したのは、近郊のイモラでF1サンマリノグランプリが開催されるからであったが、中世以来、学問の中心であり、富裕層の食文化への貢献もあり、優雅なる都市を満喫した。
ボローニャ大学周辺を散歩していた時、ショーウィンドーの素晴らしい靴が目に入った。
その店は、ボローニャが世界に誇る『ア・テストーニ』で、これまで見たどんな靴よりも、デザイン・製法共に優れた靴との出会いであった。
ショートブーツを購入し、店を出た。
Mr. Cloud
現在は、元の姿を取り戻しているが、その時の廃墟はひどいものだった。
ヴェネツィアでは、サン・マルコ広場にある最古のカフェであるカフェ・フローリアンで午後の一時を過ごしたが、あのゲーテやカサノヴァもひいきにしていたことを思い出し、歴史を共有できたことが感慨深い。
ヴェネツィアの次に訪れたのが、ヨーロッパ最古、世界の大学の原点であるボローニャ大学のあるボローニャである。
あのダンテ、ガリレオ、コペルニクスが学んだのもボローニャ大学である。
ショーン・コネリーが主演した中世の修道僧探偵の話である、ボローニャ大学の教授であるウンベルト・エーコの大ベストセラー『薔薇の名前』は私の大好きな映画の一つであるが、ボローニャは中世の趣そのままに、アーケードが街をめぐり、またかつて塔が競って建てられたという名残もあった。
ボローニャに逗留したのは、近郊のイモラでF1サンマリノグランプリが開催されるからであったが、中世以来、学問の中心であり、富裕層の食文化への貢献もあり、優雅なる都市を満喫した。
ボローニャ大学周辺を散歩していた時、ショーウィンドーの素晴らしい靴が目に入った。
その店は、ボローニャが世界に誇る『ア・テストーニ』で、これまで見たどんな靴よりも、デザイン・製法共に優れた靴との出会いであった。
ショートブーツを購入し、店を出た。
Mr. Cloud
2011年6月15日水曜日
南仏の5月 パート4
2000年の5月に新婚旅行で4年ぶりにミラノを訪ねたが、前回、ミラノの町で驚いたことがある。
子どもたちが、新聞や段ボールに何か書かれた物を高く掲げ、私を取り囲み体を弄るのであった。
ミラノっ子に注意されたのは、それがジプシーのスリの集団であったということである。
少し離れた所にスリのボスである母親のような女が成果を待っているのであった。
子どものスリの集団には、文化的なショックというより、人間として衝撃を受けた。
ここには、生きるために盗むことを仕事にする子どもたちがいると。
ミラノからヴェネツィアに向かう車窓に映る風景は、正にイタリアそのものであった。
途中、ヴェローナに停車した特急は、ほぼ時間通りにヴェネツィアに到着した。
車のない町であるヴェネツィアは、移動は水上タクシーかヴァポレットと呼ばれる水上バス、それに歩きのみであったが、迷路の街は、私を幻想の世界に誘った。
この街を舞台に、シェイクスピアが『ベニスの商人』を、トーマス・マンが『ベニスに死す』を著し、多くの歴史上の人物達が、逗留したのである。あのナポレオンも。
夕食は、ヘミングウェイやオーソン・ウェルズでも有名な『ハリーズ・バー』で、まず食前酒にドライ・マーティニを注文し、ジェームズ・ボンドを気取った。
このヴェネツィアにも4年後、妻と一緒に二度目の訪問を果たすことになる。
Mr. Cloud
子どもたちが、新聞や段ボールに何か書かれた物を高く掲げ、私を取り囲み体を弄るのであった。
ミラノっ子に注意されたのは、それがジプシーのスリの集団であったということである。
少し離れた所にスリのボスである母親のような女が成果を待っているのであった。
子どものスリの集団には、文化的なショックというより、人間として衝撃を受けた。
ここには、生きるために盗むことを仕事にする子どもたちがいると。
ミラノからヴェネツィアに向かう車窓に映る風景は、正にイタリアそのものであった。
途中、ヴェローナに停車した特急は、ほぼ時間通りにヴェネツィアに到着した。
車のない町であるヴェネツィアは、移動は水上タクシーかヴァポレットと呼ばれる水上バス、それに歩きのみであったが、迷路の街は、私を幻想の世界に誘った。
この街を舞台に、シェイクスピアが『ベニスの商人』を、トーマス・マンが『ベニスに死す』を著し、多くの歴史上の人物達が、逗留したのである。あのナポレオンも。
夕食は、ヘミングウェイやオーソン・ウェルズでも有名な『ハリーズ・バー』で、まず食前酒にドライ・マーティニを注文し、ジェームズ・ボンドを気取った。
このヴェネツィアにも4年後、妻と一緒に二度目の訪問を果たすことになる。
Mr. Cloud
2011年6月10日金曜日
2011年6月7日火曜日
Candy Artisans
原宿でとてもかわいいキャンディーのお店を発見
カラフルでフレーバーも豊富で、何だか夢の世界、とろけそうです~
プレゼントしたら、きっと喜ばれそう、大人でも子供でも


キャンディーの万華鏡

飴作りはとても大変な力仕事

Candy Artisans
Mrs. Cloud
カラフルでフレーバーも豊富で、何だか夢の世界、とろけそうです~
プレゼントしたら、きっと喜ばれそう、大人でも子供でも



キャンディーの万華鏡

飴作りはとても大変な力仕事


Candy Artisans
Mrs. Cloud
2011年6月2日木曜日
南仏の5月 パート3
ちょうど先日、F1のモナコグランプリが終わったばかりであるが、久しぶりに続きを書いてみる。
ミラノでダ・ヴィンチの足跡を追い、スカラ座前の銅像や、修復中であった『最後の晩餐』、また『ダ・ヴィンチ博物館』を訪ねた。
9歳の時にNHKで放送されていた『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』を観て以来、彼は私にとって長嶋茂雄と並ぶ憧れの人であった。
上野の国立博物館で『モナリザ』の本物を鑑賞した後は、小学校でもなぜか笑うと、モナリザの微笑みと言われるほどだった。
最も憧れていた女性であるグレース・ケリーの国であるモナコ公国に入国するまで、ミラノを後にし、ヴェネツィア、ボローニャ、イモラ、フィレンツェ、ジェノバとイタリアを巡った。
Mr. Cloud
ミラノでダ・ヴィンチの足跡を追い、スカラ座前の銅像や、修復中であった『最後の晩餐』、また『ダ・ヴィンチ博物館』を訪ねた。
9歳の時にNHKで放送されていた『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』を観て以来、彼は私にとって長嶋茂雄と並ぶ憧れの人であった。
上野の国立博物館で『モナリザ』の本物を鑑賞した後は、小学校でもなぜか笑うと、モナリザの微笑みと言われるほどだった。
最も憧れていた女性であるグレース・ケリーの国であるモナコ公国に入国するまで、ミラノを後にし、ヴェネツィア、ボローニャ、イモラ、フィレンツェ、ジェノバとイタリアを巡った。
Mr. Cloud
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